第二部:ゴッホの『種蒔く人』

 

 

 

 

 

さて、この話はここで終わりではありません。

というのは、ゴッホ(ヴィンセント・ファン・ゴッホ1853-1890)は、なぜあのような『夕陽と種蒔く人』(1888.6)を書いたのでしょう。そこにも、おもしろい逸話があります。それをお話しします。

 

実はゴッホは『種蒔く人』を10枚以上描いています。初めは、あこがれの画家ミレーの「模倣」でした。

●⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳(10枚)

ゴッホは、子どもの頃から激しい気性でした。また、コンプレックスの塊でした。その原因は、「兄との比較」です。父がいつも自分と兄を比べる。しかも、その兄とは、前年の同月同日に生まれ、すぐに死にました。つまり、死んでしまって存在しない兄との競争、兄の複製、兄の2号を生きる運命を背負わされたのです。

だから、いつも、何をしても、物まね。自分は死んだ兄の物まねでしかない。だから自分のオリジナル、「自分らしさ」が見つからない。見つけられない。これがゴッホが「同じテーマ」に、執拗に取り組む理由です。

また、ヴィンセント家は代々、牧師になるか画商になるか、それが一家の誉れ・出世でした。そのプレッシャーに、ゴッホは翻弄されました。牧師になるか、画商になるかの間で揺れ動いていた。いったんは、画商になったがやめて、牧師になると決心し歩み始めたが、それも挫折します。

しかし、ついに、27歳、父の反対を押し切り、ゴッホは「画家の道」を歩み始めます。

ゴッホは「同じテーマ」にこだわります。同じテーマを何度も描き続けます。それは「掘る人」「麦畑」「跳ね橋」「ひまわり」「糸杉」「オリーブの木」「自画像」と。自分の好きなテーマをみつけるとそれを何度も何度も描きます。

ゴッホの有名な作品を見てみましょう。

●㉑㉒/㉓㉔/㉕㉖/㉗㉘(2枚×4種類=8枚)

 

ゴッホが『種蒔く人』を描き始めたのは、27歳の時からです。それから亡くなるまで、このテーマを何度も描き続けます。

ゴッホの『夕陽と種蒔く人』(1888.6)をもう一度じっくりと見てみましょう。

●㉙

ゴッホのこの絵には、4つの土地が出てきます。悪魔を意味するカラスまで出てきます。背景の夕陽が神です。種蒔く農夫は弱々しい。この絵は、聖書の文字には忠実ですが、ここに神の愛は見当たらない。み言葉を示す種さえほとんど見えない。畑と道ばたと石地の区別も難しい。

まさに、ゴッホ自身の「信仰的未熟さ」が現れています。聖書の文字には忠実ですが、メッセージが不在。結果、この絵には、感動が感じられない。

しかしそれでも、ゴッホも最後の最後に、「ミレーと同じ構図」にたどり着くことができました。しかも、ゴッホにしか描けない、自分だけの独自のタッチと色彩で『種蒔く人』(1889.10)を描きあげました。これは模倣でも、複製でもなく、ゴッホ流の「色彩への翻訳」(手紙363)です。天才画家ゴッホの誕生です。

●㉚

このゴッホ作『種蒔く人』は、ゴッホの信仰的解釈が加わり、良い土地だけ。黄色と青、黄色は神の愛、青は人間の希望。神の愛と人間の希望のコラボが、夕陽に輝いています。こうして、ゴッホも自分なりの「種蒔く人」を描くことができたのです。

 

このゴッホ作「種蒔く人」のメッセージは、「私たちは、神に愛されているのだから、他者との比較も競争もいらない。大切なのは、み言葉に聞き、神の愛を受けて、自分らしく生きること」です。

人が生きるためには、比較も競争も、心配も思い煩いも不要。なぜなら、私たちは一人ひとりみな神に愛された「良い地」なのだから。み言葉を受け、神を信じてのびのびと生きる時、豊かな実を結ぶ。

それぞれ、み言葉に耳を傾け、自分に与えられているタラントの芽を育み、豊かな実を結びましょう。神の御手の中で、自分らしく、のびのびと生きればいいのです。

 

*『ファン・ゴッホの手紙』圀府寺司訳(みすず書房、)

*圀府寺司『もっとしりたい ゴッホ』(東京美術、アルク出版、2007年)